らぬき
というのは
「これは食べれる」
というように
「これは食べられる」
の誤用のこと
れたす
というのは
「これは食えれる」
というように
「これは食える」
の誤用のこと
と思われがちだ
ですが確か文部科学省だかその辺的には
誤用ではなく推奨されない使い方
的なニュアンスではっきりと誤用でないと言っていたはずだ
これはおそらく日本語文法的には間違っているのに
きっぱりと誤用だと言い切れない複雑な背景があるはずだ
たとえばよく言われる日本語の乱れ
「役不足」や「取り付く暇もない」だとか取り沙汰されるが
これは誤った意味が一般的に定着し、その用法もOK
古典単語から現代単語への変遷を見ても同様の現象は見られる
的な流れとは違う
この問題はきっと、方言学会から圧力がかかったに違いないのだ
たとえば私が生まれ育った中国地方では
「らぬき」「れたす」が日常的に使われている
方言は言語における文化である
それぞれがリスペクトされ保存されていくべきだ
その地方の文化はこれらの言語とともに発展してきた
だからこれらの方言も守られねばならないのだ
と、圧力がかかったに違いない
某私の恩師は大学の入試の際
「義務教育において方言をもい入ることについてどう思うか」
と面接で聞かれたらしい
その際氏は
「方言も大切であるが義務教育は共通語で行うのが良いのではないか」
というまっとうな意見を述べたそうであるが
たまたま面接官が方言学の教授であり
ぐちぐちと文句を言われたそうだ
だがしかし、その教授のいうことも一理ある
方言が文化であることは間違いない
受け継ぐものがいなければ廃れてしまう
共通語化を推し進め、方言が消えてしまうという事態をは避けたい
消えてしまってからでは遅い
アイヌ語や琉球語を守っている人は今でもいるはずであり
それはその土地土地の文化を反映していることは間違いない
そんな意見が上がってきたのではないかというのは私の想像である
しかし、義務教育は共通語で行うべきだろう
日常の会話は方言で差し支えないが
パブリックな場面においては正確な文法でコミュニケーションを
行うことができるべきである
文化を守るという意味では方言の授業を導入するなどして保存を心がけるべきだろう
だから、もしあなたが若者言葉で
単に日本語の乱れとして「らぬき」「れたす」を用いていない、
つまり方言として用いているなら
その「誤用」指摘された時の「言い訳」は
「日本語の乱れは言語を使用しているうちに自然に生じた『変化』だ」
などと講釈を垂れるのではなく
「つい方言が出てしまった」
というべきだろう
(いや、言わなくていいが)
(この場合は、スマートではないので謝って済ますべきだろう。
変ないざこざを避けるのが良くも悪くも日本人の「文化」だったりする)
さぁ、諸君も一方言の保存のために
積極的に「らぬき」「れたす」を使おうではないか。